「お化粧」の歴史 其の二 〜江戸から戦後へ〜

さて。前回ではお化粧が呪術として行われていた古代から、

ようやく日本独自の化粧文化が発展してきた平安時代のおはなしをしました。

次は江戸時代の化粧文化についておはなししたいと思います。

4 江戸時代

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わたしたち現代人は、綺麗な白い歯を保つことにたくさんの時間やお金を費やしていますよね。

江戸時代の化粧文化を語るにしてはずすことのできないのが、お歯黒でしょう。

江戸時代のお歯黒は、酢のなかに酒や折れた釘などの鉄を使った鉄漿水と、

タンニンという成分を多く含んだヌルデという植物の根を交互に歯に塗布することで行われていました。

鉄漿水とヌルデの根が化学反応を起こすことで歯を黒く染めていたのです。

しかし、江戸時代の女性のすべてがお歯黒をしていたわけではありません。

お歯黒をするのは結婚した女性に限り、

この時代では結婚して子供を産んだ女性が女性として一人前、という考えがあったようです。

それでは次はお歯黒以外の化粧文化についておはなししましょう。

以前吉原遊郭のお座敷遊びについての記事を書きましたが、

やはり江戸時代の美容や化粧文化の発信点は、遊郭で働いている遊女たちでした。
きらびやかで重厚な柄の着物と帯、

そして遊女独特の専属美容師、「髪結い」に結わせていた結い髪。島田髷などが有名ですね。

江戸の街では彼女たちの着物の着方や髪の結い方を真似る女性が続出していたようです。

そんな彼女たちのメイクと言えば、

白粉をたっぷりと塗った肌に眉ずみを引き、目もとや口もとは紅で仕上げるというもの。

昨今流行ったおフェロメイクにも通じますが、

目もとにほんのりと紅をのせることで色気を醸し出していたようです。

5 大正時代

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さて。時代はいきなりとんで大正デモクラシーの時代。

わたしの曾祖母がそうだったようですが、

この時代にはモダンガール、略してモガの女性がでてきます。

彼女たちは西洋風のアイシャドウや頬紅、口紅を引き、

ひざ下丈のスカートをはいて街を闊歩していました。

しかし流行りのショートカットも当時は断髪、と呼ばれあまり上品な印象とはみなされなかった、

特に明治を生きてきた親世代(わたしの曾曾祖父、祖母の世代ですね。)には顔をしかめられるありさまだった、というのは曾祖母の言葉です。

6 昭和時代

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「欲しがりません。勝つまでは。」

戦中の女性たちは、そのおしゃれ心を自粛しなければありませんでした。

大正時代に輸入されたファッション文化も当時の軍国主義的な空気には廃れていき、

女性たちのファッションも防空頭巾ともんぺに代わってゆきます。

この時代は母も化粧などをしていなかった、というのはわたしの祖母の談です。

7 戦後から

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さて。時代がかわり、戦後のことです。

戦後の街のアイドルは、アメリカ兵などに身を売るパンパン・ガールたちでした。

彼女たちは西洋風に髪にパーマネントをあて、

赤い口紅を引いて在日アメリカ兵などの相手をして暮らしていたようです。

「こんな女に誰がした」というのは有名なパンパン・ガール、ラク町おときさんの言葉ですが、

いつの時代も女から羨望されるのはからだを売って暮らしている女たち。

そう考えるととても感慨深いですが、やはり歴史は残酷ですね。

その後、写真の加賀まりこさんのように、

現代のメイクに通じるお化粧の女性たちが銀幕で活躍するようになってきます。

 

さて。いかがでしたか?

これからの流行を作ってゆくのは、わたしたちこれからの時代の女性たちです。

 

 

 

 

 


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